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「悲しみのための装置」について [日々のこと]

『悲しみのための装置2018』無事に終演いたしました。ありがとうございました。

全体企画である「グリーフタイム×演劇×仏教」についての振り返りもさることながら、まずは『悲しみのための装置2018』について少しばかり。



「悲しみのための装置」という作品を上演したのは2000年(都住創センター)ですから、もう18年も前になるんですね。20世紀の最終年です。

この頃に満月動物園のキャッチフレーズというかコンセプト文というかで書いてホームページなんかに載せていたのが下記の文章でした。

『20世紀を“怒りの世紀”と総括するなら、21世紀は“悲しみの世紀”になればいい。悲しみを怒りに転化させて共有するのではなく、悲しみを悲しみのままに共有する。そんな“悲しみの世紀”になればいい』

20世紀は第二次世界対戦がありましたし、悲しいことがたくさんありました。そして、みんな怒っていました。当時24歳くらいのボクは21世紀が穏やかで繁栄的であることを願っていました。

ソ連が崩壊して冷戦が終わり(1991年)、9.11(2001年)の直前という時期です。世界はきっと平和な方向に向かうと、たぶん誰もが思っていたと思います。西側は冷戦に勝利し、東側はソ連の圧政に勝利し、敗者はいないと、ボクは無邪気に信じていました。

ボクの中で、20世紀の悲しみの象徴としてパレスチナ問題があって、1995年11月4日(ちょうど大学に入学して大阪に出て来た年でした。阪神・淡路大震災、オウム事件の年でもありました)に、パレスチナの和平を推進していたラビン首相が暗殺された時には、我が事のように憤慨し落胆し失望していました。

それは、シャアに『ボウヤだからさ』と言われてしまうような憤慨で落胆で失望でしたが、あのときの気持ちはよく覚えています。
■シャア・アズナブル(参考)
http://goo.gl/AB4WZ6

歴史を思えば迂闊に言えることではないのですが、「怒り」を共有するのではなく、「悲しみ」を共有することが出来るなら、世界から戦争・紛争はなくなると、今でも思っています。

若者(ボウヤ)らしい気宇壮大で無根拠な万能感に溢れた「悲しみ」への関心は、徐々にミニマムに、一人ひとりそれぞれの「悲しみ」に向かっていきました。

当時『悲しみのための装置』というタイトルは、大雑把に「怒るばかりで、“悲しみ方”を見失っていませんか?」「他人の悲しみに対して“義憤”ばかりでなく、悲しみそのものに目を向けていますか?」という問いからつけたものでした。

描いたのは極めてミニマムな一人の女性の“悲しみ”の物語でした。



それから11年後、突発的な公演として『悲しみのための装置2011』を上演しました。1月でしたので、3.11東日本大震災の直前です。

今回と同じ應典院のコモンズフェスタに『太陽物語』という作品で参加していたのですが、その際に應典院2階気づきの広場で併催されていた美術作品に触発されて、その美術作品の中で翌週に上演したものです。


『2011』ではテキストはボクの用意したものでしたが、河上と諏訪が出演し、河上が読み、諏訪が踊るという構成は今回と同じです。それと、演者は2人でしたが、ゼラ(カラーフィルター)を入れた懐中電灯をたくさん使ったのも同じです。真っ白な樹のオブジェを色とりどりに照らしました。

その際に書いてた「製作序文」です。


■悲しみのための装置2011 製作序文 真白の樹、彼岸、けれどそれを見つめる人の視線は様々。青く見える人がいたり、黄色く見える人がいたり、本人は白色を捉えているつもりであるけれども、他のものから見たときにその人の白は赤色だったり。 白色とは、無数の色が重なって構成されているものなのかもしれない。だとすると、重なる色は光で絵の具ではない。絵の具は重なれば黒になる。絵の具は見られなければ用をなさず、絵の具自身は何も発しない。色とりどりの人間を絵の具と捉えると見誤るのではないか。色を重ね黒く深い闇に落ち込むのではないか。人間は、人間の視線は光なのではないか。 視線は光で、外に向けられたものなのだとすると、。無数の人々が発する光が集まっていく場所を私たちは彼岸と設定して、この浮世を生きているのだろうか。 悲しみは闇ではなく光だ。
■掲載URL
http://goo.gl/h2QeKr



ゼラ(カラーフィルター)を入れた懐中電灯を初めて使ったのは2002年の『自覚ある狂気の哀しみ』という作品でしたが、その頃から意味付けはほぼ一貫していて、「人の視線」を象徴させています。
(ボクは「悲しみ」と「哀しみ」を明確に使い分けてますが、それは割愛しつつ)

人は必ず、自分の主観を通してしかモノゴトを見ることが出来ない。必ず、自分の色をつけてモノゴトを見ている。「自分という存在」すら、見る人によってその色どりは変わるし、自分の振る舞いが変わる(家族に向ける顔、職場の同僚に向ける顔、仕事上のお客様に向ける顔、人の視線によって規定されるようで、実は自分の主観がそれを選択させている)。

そして、光を向けた方(前方)しか見ることが出来ない。目を向けない真後ろは闇だ。

あの懐中電灯に仮託しているものは、だいたいこのようなモノで一貫して、ボクの作品の中で使用してきました。


ある主観は、ある色でモノゴトを染め上げてしまいます。ですが、人はそれ以外にモノゴトを認識する手段を持ち得ません。ならば、多くの主観でモノゴトを照射し、より真白に近くモノゴトを浮かび上がらせたい。

悲しみを怒りに転化することなく、悲しみのままに共有する。ひとつの方法論として考えることです。これが絶対だなんて言えません。


そして、2013年に、震災から2年後のコモンズフェスタで陸奥さんが「彼岸に向けた手紙」を全国から應典院に募るという企画を実施され、最後にお焚き上げして供養するというものだったのですが、その前になにかパフォーマンスをしてほしいと依頼されて、本堂で俳優たちに読んでもらったフォーマットが、今回の『悲しみのための装置2018』と、まったく同じフォーマットです。
■『手紙供養』開催概要(應典院HP)
http://goo.gl/7dspHm

これは、演出的に「解釈をしない」というところが、ボクにとっては最大のポイントなフォーマットです。テキストの受け止めも発し方も俳優に委ねています。

2013年の手紙供養も、今回の『2018』も、読み上げられることを前提に書かれたテキストではありません。

そこに向き合うのに、演出的に「整える」ことよりも、読み手一人ひとりが自分の人生を背景に受け止め発する以外に、誠実に向き合う方法はないだろうと考えるからです。

ですが、俳優ですから「うまく」読みたくなります。当たり前です。ですから、テキストは事前には読まず、当日めくったときに初めて出会ったものです。精神的に素っ裸で向き合ってもらいました。

俳優さんたちが、終演後に「個人的な体験」として感想を発信されているのは、ボクが指示し望んだスタンスでありました。

そして、立ち会った聞き手(観客)は偶然、近くにあったテキスト(言葉)に、何度も様々な主観に照らされて、触れます。遠くのテキストも、自分のアンテナに反応する主観で照らされたときにスッと耳に入ってきます。

演出的な「解釈」が施されていませんので、受け取り方もまた、聞き手の主観に依ります。

多くは、いく通りもの主観で語られた“悲しみ”を奥深くで受け止め、自分のグリーフ、身近なグリーフに思いを馳せ、場の一体感を感じつつ、自ら感じるところをお持ち帰りいただいたようですが(当日や昨日今日にいただく感想からは、正直、あまり演劇を観慣れない方から、そのような反応をたくさんいただいたという面があります。観慣れないだけに言葉にされるのに時間がかかるようで、ポツポツとメールが送られてきます)、中には「なんで、こんなの聞かされなくちゃいけないんだ」と感じられた方もいらっしゃいました。意図せぬものをお持ち帰りいただくことになってしまいましたが、それもまた「本当のこと」です。


あと、手紙供養にしても『2018』にしても、彼岸此岸の別のない、怨親平等の仏さまの視線あるお寺の本堂だからこそ、やろうと思えたことです。普通の劇場ならやろうとは思いません。

そして、言葉と声、その思いを仏様にお預かりいただく、お坊さんの声明(しょうみょう)で締めるのが、寺院空間に相応しいと思うのです。とはいえ、ボクは仏教の布教がしたいワケではありません。

普通の法要であれば「観客」はお坊さんと一緒に仏様の方を向いています。ですが、手紙供養や『悲しみのための装置2018』の主旨を思えば、その場に満ちた思いをお坊さんに向け、仏様に向き合うのはお坊さんだけというカタチが相応しいと思うのです。

仏教の布教がしたいワケでないので、お坊さんがお経を読むのに仏様にお尻を向けた席もあるという、まあ、「演劇」と名打たないとあり得ない空間構成でした。

ここでもやはり、お坊さんは一人の人で、ひとつの主観でした。仏教に言う仏法僧の僧というよりは、仏教に人生を捧げるという選択をされた、一人の人として、立っていただけたと、ボクは感じております。



ボクは演出家として、解釈しないという選択をしたので、本当のところ自分で評価するのが難しさを感じていますが、「良かった」というたくさんの反響と、「あかんで」という反響とに、慎重に耳を澄ませたいと思っています。
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