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届く言葉 〜「グリーフケアとしての伝統仏教」のこと [日々のこと]

演劇にあまり関心のない方に『演劇界、今、こんなに盛り上がってるんです!』と熱弁を振るったとき、「ふーん」と「へぇー」の間のなんとも言えない反応が返ってくることがある。よくある。

『グリーフタイム×演劇×仏教』の中のトークシンポジウム「グリーフケアとしての伝統仏教」でもそんな一コマがあった。

大塚茜さんと山田昌史さんの、お寺さんの日々の営みに対する問題提起(というかダメ出し)へのアンサーとして、秋田住職が「東日本大震災による仏教界の変容」のような話題を持ち出したときだ。

『グリーフタイム×演劇×仏教』はタイトルどおり、仏教に興味ある人1/3、臨床心理士業界の方々1/3、演劇に興味ある人1/3といった客席だったと思います。

まあ、、、そんな反応になるよね。

言葉を選ばずに、世間から「マイナー」扱いされることの多い「演劇」が大好きでそこに身を投じているわけだけど、「マイナー」扱いされるからこそ、どんな言葉が届くのか、日々日々、試行錯誤しているところがある。

翻って、チラシにも書いたけど、「直葬(火葬場でちょいちょいとお経を上げてもらうだけ)」、「一日葬(お通夜・葬式・一周忌を一日で済ませる)」などの登場に『危機感』を持ってるらしいお坊さん業界。

「伝統っていいよね!」って言葉で「直葬」や「一日葬」という動きが止められるなら、そもそも登場してるはずがない。伝統は前からあるから伝統なんであって、あるのに登場してきたのだから。

伝統がマイナー化しつつあるからこその変容なんだろうと思う。

やはり、あそこで大塚さんや山田さんの問題提起を大上段にはぐらかすのではなく、ストレートに深められないところに、今の「頑張ってるお坊さん」の限界を見た思いがする。それが露わになったことは、『グリーフタイム×演劇×仏教』のひとつの成果だ。

SNSの登場で世相を紐解く言説は多いけど、それは詰まるところ、『ワタシはコレを為している』という、行為だけがモノをいう世界観に移行しつつあるのだろうと思う。日々の営みに対する問題提起のアンサー足り得るのは、自らの行為だけだ。業界動向ではない。

仏教界の、お寺界の先行きを案じる立場にはない。ボクの主戦場は板の上にある。

ボクが死んだときには出来れば【伝統】に則って送ってほしいと願うし、菩提寺はせめてボクの生きてる間に潰れてほしくない(いや、もちろん永続してほしいんだけど)。けど、それだけだ。

カオスな企画のカオスな客席で、届く言葉と届かない言葉が峻別されたことは、良かったとボクは思っている。

「演劇のお客さん」たち、からうかがう感想でも、刺さっているのは【問い】であるというところは共通している。【アンサー】はほとんど刺さってない。

仏教に興味ある人には、そもそもどんな言葉でも届くし、ただそれで「直葬」や「一日葬」に代表されるような伝統の変容が止められるとは思わない。

個人的に伝統仏教は好きなので、長いスパンでカルト化していくようなことになると、少し寂しい。誰にも刺さる言語を発掘してほしいと思う。



個人的にと言えば、秋田住職の声明(しょうみょう)が好きだ。読経の声ですね。最初に満月動物園に出演していただいたのが2004年。ガチガチのお芝居に本人役で読経していただました。

読経の美しさと「かつてお寺は劇場だった」という講話は、ボクたち演劇関係者に向けてではなくて、お客さんにこそ聞いてもらうべきものであろうと、そのままを舞台でやっていただいた。

そういう意味、演劇のお客さんの前に引っ張りだすという意味では、2004年から、ボクのスタンスはまったくブレてない。

なんだろう。そんなところにも入口は広く開かれている気がしてるんだけど。。。

ここから先は【本職】の方が考えられることでしょう。




『グリーフタイム×演劇×仏教』は要素が多すぎて、今日はこんな振り返り。
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